目次ほたる 「記憶のはしっこ」#1
12 Photosモデル・ライターとして活動する19歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」がスタート。
目次ほたる 「記憶のはしっこ」#1
12 Photosモデル・ライターとして活動する19歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」がスタート。
ある日、私のスマートフォンに一通のメールが届いた。
普段はあまりメールが送られてくることが少ないものだから、一体なんの連絡だろうかと思い開くと、つらつらと長文が綴られているのが見える。内容は、「カメラを貸すので、写真の連載をしませんか」というものだった。
真っ先に(どうして私に……?)という疑問が浮かんだ。嬉しい。でも、ちょっと怖かった。
それもそのはず、私はカメラマンさんから依頼を受けて撮影される、いわゆる「被写体」として活動していたからだ。撮られる側の私に、撮る側の依頼がくるとは思えない。
以前から、写真は撮ってみたかった。けれども、飽き性な私は高価なカメラを買う勇気が出ずに、自前のiPhone7で撮った写真をSNSに載せるくらいで諦めていた。
メールを読めば、そんな私の非技術的な写真や、たまに書いた長文なんかを読んで、連絡をくださったということらしい。心の中で一抹の不安を覚えながらも、またとない機会だからと、すぐに返信をした。「是非、やらせてほしいです」と。
それから緊張しながらも恵比寿のカフェで打ち合わせをして、トントン拍子に話が進んだ。メールの送り主であった方が、明るくて優しい感じで安心した。
そうして、ついに私のもとに訪れたのは、小さなミラーレスカメラだ。白色と銀色の小さな身体に、にょきりと黒いレンズをはやした姿は、とても可愛らしくて、すぐに気に入った。(短い間かもしれないけど、よろしくね)
そう、心のなかで呟く。
一通のメールをきっかけに、突如始まった私の写真生活は、一体どこに向かうのだろうか。
カメラを持って、街を散歩しながら、なにを撮るか考えていた。撮るものを決めるということは、同時に、「写真を撮るという行為をどんなものとして捉えるか」について考えることでもあった。写真を撮るのは、どういうときだろう。美味しいものを食べたとき?キレイな景色を見たとき?友達と盛り上がっているとき?欲しい物を買ったときも、撮りたくなるかもしれない。「撮りたい瞬間」で一人山手線ゲームをしていると、浮かび上がってきた、私なりの答え。それは、「記憶を残したいときに写真を撮るんじゃないか」ということだった。
人の記憶は曖昧模糊で、なにもかもは覚えていられない。移ろう情景のうち、これだけは忘れたくないことを、カメラの力を借りて切り取る。切り取った記憶は、画面を通じて、いつでも取り出せるようになる。それが、私の知っている写真を撮るという行為だった。
(じゃあ、私が残したい記憶ってなんだろう)
そうして、自分の記憶を見つめ始めることにした。記憶をひとつなぎに結びつける「はしっこ」を、つかまえに。
梅雨の風物詩といえば、なんといっても「紫陽花」だと思う。
白や青、紫、ピンクなど表情の違う様々な色彩が無数に束ねられ、まるで一つ一つが小さなブーケみたいだ。そんな姿が愛おしくて、毎年、梅雨の時期が楽しみだった。私の住む家の近くには大きな神社があって、鳥居を抜けた先に、いっぱいの紫陽花畑が広がっている。曇り空を背にし、雨に濡れた花々の艷やかに頭をもたげる姿が、とても幻想的だった。
ところで、紫陽花は英語で「Hydrangea」というらしい。ギリシア語の「水(hydro)」と「器(angeion)」を組み合わせてできた言葉だという。「水の器」。彼ら彼女らを表す言葉で、これ以上のものはない気がする。
外出自粛の影響で、日中の時間のほとんどを自宅でのデスクワークに当てていたからか、ひどい腰痛に見舞われていた。椅子に座っていられないほど、腰がズキズキと痛む。
しかし、「私は、まだ19歳なんだぞ!!」と謎の意地を張って、しばらく病院には行かなかった。我ながらびっくりするほど愚か者だと思う。しかし、痛みは容赦なく続く。「腰にちっちゃいダンプでものせてんのか!」と、ボディビルの大会ばりに、合いの手を入れたくなった。でも、母に心配され、仕方なく病院に行くことにした。長い待ち時間を終え、診察室に入ると、眉間に深いシワを刻んだ気難しそうなお医者さんが座っている。内心ちょっとひるんだけれど、状況を伝えた。
「腰が痛いんです」
すると、診察ベッドに寝かされて、いきなり腰のあたりをグイッと押された。予想していなかった痛みに「ぐえぇうっっ」と、うら若き乙女は決して出してはいけない声が出た。さながら、踏みつけられたカエルのようだ。
痛みに苦しむ私に対して、「あのね、こうなる前に病院に来なさいよ」と、怖い顔を向けられた。何たる理不尽。私はただ、仕事を頑張ってただけなのに。終いには、「君は筋肉が足りないから、水泳をやりなさい」と至極正論を言われてしまった。
ひととおりの診察を終え、レントゲン写真が出てくるのを待っている間に、仕方なくスイミングのネット予約をすることにした。あんな痛い思いをさせられて、何もしないのは悔しい。
お医者さんと出来上がったレントゲン写真を見つつ、言われたとおりスイミングの予約をしたことを報告する。すると、先程まで恐ろしい表情をしていたお医者さんが、一瞬だけ優しく顔をほころばせたのを、私は見逃さなかった。それだけでもびっくりしたのに、次はおもむろに鉛筆を取り出したかと思えば、先程まで記入していた私のカルテの端に「良い子」と書いているのが見えた。なんだそれ。嬉しくなってしまったじゃないか。私、この先生、けっこう好きだ。
本日のメニュー「鶏の照り焼きサラダランチプレート」
甘辛く焼いた鶏肉と、近所のスーパーから(私がエコバッグで)直送したサラダが絶妙なハーモニーを奏でます。
朝、布団に潜り込んで微睡む時間は最高だ。
そもそも、布団の上は、この世で最も天国に近い場所だと思う。異論は認められない。
小学生のときに習った「枕草子」では、「春はあけぼの」なんて言って、その季節ごとの風流な時間を選んでいたけれど、もしも私が清少納言だったら大変なことになっていた。だって、「春はまだ肌寒いから、朝の毛布に包まる時間が最高。夏はクーラーをこれでもかときかせて、布団に横たわっている時間が一番。秋は涼しくなったら薄手のタオルケットを出してきて、昼寝できる。冬は羽毛布団が本領発揮、最高のぬくもりをアナタへ」なんて言ってたと思うからだ。情緒なんて一気に吹き飛んでしまう。私が清少納言じゃなくて、本当によかった。
これは、近所のおもちゃ屋さんの前にある、ラムネのクレーンゲーム。1プレイ10円。
小さい頃から何度か挑戦したことがあるけれど、1プレイにつきラムネが1個とれたら、いいほうだ。ひどいときは、1個も手にすることなく、サビだらけのマシンに私の10円玉が飲み込まれていった。今考えてみると、どちらにしろ10円のラムネはちょっと高級すぎるのではないかと思う。でも、たまにやりたくなってしまうから、アレは魔のシステムだ。
夜、まぶたを閉じるだけで手に入れられる、一人分の暗闇。気に入っている。
ひどい近視だ。コンタクトレンズかメガネがないと、とてもじゃないけど生活できない。きっと時代が違かったら、例えば、江戸時代に生まれていたら、私は生きていくのが難しかったかもしれない。技術が進歩したおかげで、私は文化的に暮らせているのだ。その恩恵を忘れてはいけないし、だからこそ、私はできるだけ成長し続けないといけないなと思う。ところで、緑色は目にいいと聞いて(どうしてかは知らない)、一生懸命、緑色の写真を撮っている。それなのに、ちっとも良くならないじゃないか。ちぇっ。
人生で一番泣いたことなら思い出せるけれど、人生で一番笑ったことは、なぜか思い出せない。飛び起きるほど怖かった夢は思い出せるけれど、一日中喜びが続くような楽しかった夢は思い出せない。思い出せないものはなくなってしまうのだろうか。それは嫌だな。昔読んだ寺山修司の本で、こんな一節が綴られていた。「思い出さないでほしいのです/思い出されるためには/忘れられなければならないのが/いやなのです」
忘れることも、それを思い出すことも、なんだかどちらも悲しいらしい。
※「思いださないで」 (寺山修司メルヘン全集 著者:寺山修司 / 出版社:マガジンハウス)
夢を見た。不思議な動物を飼う夢だ。
私は田舎の広い家に住んでいて、庭には大きな池がある。
縦に長い庭園の形に合わせて、楕円形に作られた池は、周りが綺麗な石に囲われていた。
緑色に濁った池の水をじっと見つめていると、ヒョコリとなにかが顔を出す。
遠目からみると、爬虫類のように見えるそれは、池を出て、私のほうへ向かってきた。
近づいてきてあらわになったのは、すごくヘンテコな姿だ。
緑色のトカゲの頭に、ライオンのような胴体がくっついている。しかも、まっさらなコバルトブルー。背中には白い翼をかかげていて、お尻からは矢のような尾まで生えている。全長はおそらく3メートルほど。とても大きかった。
珍妙な生き物は私のペットらしく、とても懐いているようだ。目を細めながら、私の顔にすり寄ってくる。その仕草がどうにも愛らしくて、胴体に抱きつくと、思ったよりも柔らかくて、心地よい。
撮影・文 目次ほたる