目次ほたる 「記憶のはしっこ」#6
7 Photosモデル・ライターとして活動する20歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」の6回目です。
目次ほたる 「記憶のはしっこ」#6
7 Photosモデル・ライターとして活動する20歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」の6回目です。
20歳になった。ようやく、成人だ。
成人するのが初めてなので、ハタチになってできることを一通り調べてみることにした。
まずは、お酒が飲める。タバコも吸えるようになる。競輪や競馬の券が買えるようになったり、あとは、賃貸やローン、結婚などの大事な契約に親の同意がいらなくなるらしい。
たった19から20に1つ数字が上がるだけで、こんなにできることが増えるのは、とても不思議な感覚だ。
だって、私の中身はこれといって変わっていない。
早起きは依然として苦手だし、焼肉とお寿司はやっぱり大好きだ。悪口を言われれば、ムッとするし、褒められると嬉しい。あと、暗い場所と大きい音とカエルが怖い。
幸も不幸もさほど変わらないように思えるのに、急に「大人」の土俵にのせられた。
なにげない日常の積み重ねである人生のうち、人が本当に大人になる瞬間は、一体いつなんだろう。
スマートフォンが、もっとも透明なインターネットに繋がるのは、知らない花の名前を知ろうとしたときです。
「ひょんなことから」という言葉の、「ひょん」の部分はとてもいい。
なんか柔らかそうだし、誰もを包み込む優しさを感じる。
でも、きっと、ナイショで「ぴょん」とか「ふん」とか「ぽけ」とかに交換しておいてもバレないと思う。
食べることが好き。それと、料理をすることも大好きだ。
いや、正確に言うと、大好きに「なった」、という表現が正しい。
私が初めて料理をするようになったのは小学6年生のときだった。あのときは料理なんて面倒で、できればやりたくなかったように思う。
当時の私にとって、食事は「お腹を満たす行為」でしかなかった。料理はそのための面倒事にすぎない。育ちざかりだったからか、毎日とにかくお腹が空いていて、本気を出せば皿まで食らってしまうんじゃないかという飢餓感さえあった。
「お腹を満たすこと」と「食事をすること」は、似ているようでまったく違う。
前者は、満腹になる結果を求めているのであって、後者は食べるという過程そのものを楽ししんでいる。後者ができるようになるのは、比較的、大人になってからだ。
なら、なぜ、成長していくうちに前者から後者へと変わっていくのか。
それは、人が「味を記憶できる」からだと思う。味というのは、味覚で感じるだけでなく、記憶によって補完している部分も大いにある。「おふくろの味」なんてものは、その最たる例だ。だから、味覚の経験値をあげれば、より新しい味を求めるようになるし、味に対する感度が上がる。結果的に、食事が楽しくなるのだ。
味の記憶を身に着け、食事が楽しくなれば、次は味を作り出したり、再現する楽しさを感じられるようになる。だから私は、昔よりも今のほうが料理が好きになったんだと思う。
(この写真は、どこかで食べたなにかを再現しようとして、まんまと焦がしたピザトーストです)
ドーナツは、穴があるからドーナツとして親しまれている。
私たちの欠けた部分も、欠けているからこそ、愛されているのかもしれない。
そういえば、ちくわの美味しさを語ってほしいと連絡がきた。
ちくわの美味しさも、やはり、あの「穴」にある。
最近、写真を撮るときの悩みがある。
それは、「ちゃんと被写体を見つめられていない」ことだ。
最近の私はというと、いつのまにか撮ること自体に夢中になってしまって、本当に見るべき被写体を見ていない気がする。
あくまで私の個人的な感覚だけど、写真の出来上がりをイメージしながら撮った写真は、なんとなくダサい写真になる。撮り手の意図が透けて見えてしまうというか、なんというか。
逆に、ちゃんと被写体を見つめて撮った写真は、素直に「いいな」と思えることが多い。
完成形の前に見るべきは、目の前の事実だと思った。
これからは撮るとき、被写体をちゃんと見る習慣をつけたい。
それと、あと一歩踏み込んだり、あと一歩離れるだけの勇気もほしい。
撮影・文 目次ほたる