目次ほたる 「記憶のはしっこ」#43
8 Photosモデル・ライターとして活動する20歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」の43回目です。
目次ほたる 「記憶のはしっこ」#43
8 Photosモデル・ライターとして活動する20歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」の43回目です。
(撮影・FUJIFILM X-T30)
満開の紫陽花が撮りたくて時期を待っていたら、あっという間に梅雨入りしてしまった。
毎日毎日、こうも雨続きだと撮影に行くのも難しい。
しかし、それでも紫陽花は撮らねばならないと一念発起して、雨雲の合間をぬうように近所の紫陽花スポットに行ってきた。
今にも雨水が滴り落ちそうな曇天の下で、どうにか咲いていてくれと願った気持ちも虚しく、連日の雨で花はほとんど枯れてしまっていた。
ところどころ残っている花も、まるで朽ちる日を待つかのようにくすんだ色をしていたので、ひどくがっかりする。
出遅れた私が悪かったが、もうちょっとだけ咲いていてくれたらよかったのに……。
そう身勝手なことを思ったが、うなだれていても仕方がないので、ため息をつきながら花にカメラを向けてみた。
するとどうだろう、レンズを通してよく見てみると、枯れかけの花にもそれはそれで美しさを感じはじめたのだ。
(撮影・FUJIFILM X-T30)
たしかに満開であるときのような勢いのある華麗さはないものの、朽ちゆく運命を受け止めるような静謐な面持ちがそこにあって、撮れば撮るほど魅力的に見えてくる。
(撮影・FUJIFILM X-T30)
そういえば、中学生のときに古典の授業で「諸行無常」という言葉を習った。
この世のすべてのものは、必ず変化し、同じ状態を保つことはできないという意味の言葉だ。
この言葉を知った当時は、すべてが変わっていってしまうことに寂しさを感じた。
しかし、この花を見て考えれば、変化していけることは、変化する前とは別の新しい魅力を得られることでもあるのだとわかる。
(撮影・FUJIFILM X-T30)
今が幸せだと、変わりゆくであろう未来が怖くなるときがある。
ずっと今のままでいいと思えるのはそれはそれで幸せなことなのだろうけれど、柔らかく変化できないものは、きっとそれだけで重大な弱点となりうるだろうと思うのだ。
いま枯れてしまう紫陽花も、また来年になれば新しい蕾をつけ、新しい花を咲かせる。
変化する事実を当たり前として受け止められる強さを持つこと、そして受け止めた後にこそ得られるものに気がついていかねばならない。
と、そんなことを考えながら紫陽花を撮っていた。
(撮影・Kodak M35)
実家に帰る用事があったので、久しぶりに母とランチを食べに行ってきた。
母は仕事がとても好きでいつも働いてばかりいるので、こうやってたまに食事をしに連れださないとすぐに無理をする人なのだ。
母はあまり贅沢をしない。本人は、若い頃は派手なオシャレをしていたと言っているが、今は化粧っ気もなく、洋服もシンプルなものを大事に使っている。
「欲がないの。欲しいものもないし。でも、幸せ」
軽くそう言う彼女の生活は、まだまだ欲ばかりの私にはなんだか眩しくて、美しいと感じる。欲していてばかりな状態は、たぶん苦しいことだと思うからだ。
母はアジア料理が好きなので、私のお気に入りのベトナム料理屋さんに案内した。
素敵な料理を食べながら、母と話に花を咲かせられる時間は、私にとってかけがえのないものだ。
(撮影・Kodak M35)
最近は、お財布と相談しながらもできるだけ母に食事をごちそうするようにしている。
というのも、ちょっと考える出来事があったのだ。
私はお笑いが好きで、最近はよくYouTubeで芸人さんのチャンネルを観ている。
そのなかでも特に好きなのが、ピースの又吉さんがやっているチャンネルだ。
又吉さんのネガティブで独特なキャラクター性や、本好きなところに親近感を感じていて、以前からとても好きだったのだ。
そんな彼がこのあいだYouTubeで「親にごはんを食べさせるのは早いほうがいい」と話されていた。
「みんなそのうち親とごはんでも行こうと考えているかもしれないけど、歳をとると人によってはごはんもあまり食べられなくなってしまう。そのうちっていうのは避けたほうがいい」
又吉さんのその言葉に、ハッとした。
たしかに、私自身も「そのうち親においしいものでも食べさせてあげたらいいな」くらいに、ぼんやりと考えていたのだ。
しかし、先ほどの紫陽花の話にも通ずるが、自分が変化するということは、同じ速度で親も変化していく。
そう考えると、今の元気な親に食事をごちそうするのも、今しかできないことだと気がついたのだ。
(撮影・Kodak M35)
「おいしいね」
母とそう言って笑い合える日々が、あとどれくらい続くのかはわからない。
誰かが「別れの気配のない出会いはない」と言っていた。
母から産まれた私が母と出会ってしまった以上、必ず別れのときが来るのだ。
それはなにも母だけではなく、誰にでも言えること。
そう思うと、おのずと「日々を大切にしなければ」と背筋が伸びるのだ。
撮影・文 目次ほたる