目次ほたる 「記憶のはしっこ」#46
8 Photosモデル・ライターとして活動する21歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」の46回目です。
目次ほたる 「記憶のはしっこ」#46
8 Photosモデル・ライターとして活動する21歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」の46回目です。
風が少しずつ冷気を帯び、秋の訪れを感じる。
このところ夏が忘れ物を取りに戻ったかのような暑さを感じることも多かったが、冷たい夜風が肌の上を滑って通りすぎるたびに、世界が秋の訪れを心待ちにしながら一枚一枚衣を羽織っているように思うのだ。
秋の色といえば、赤や茶色、橙など暖色を思い浮かべる。
空の色も食べ物も草木の色も、少しばかりくすみを帯びるのが秋が生活にもたらす風情の一つだ。
夏の終わりと秋の始まり、この二つの季節の橋渡しをするかのようにいっとう鮮やかに咲き誇るのが、彼岸花だ。
火花のように熱く、鮮血のように不吉に、まだ緑の残る野原を赤く染める花。
そんな彼岸花の姿を見ると、心から美しいと感じるのに、どこか切なくなる。
そろそろ彼岸花が満開だと聞きつけて、「それは撮らねば!」と埼玉県幸手市にある権現堂公園へ彼岸花を撮影しに行ってきた。
移動中の車窓から公園が見えてきてすぐに、彼岸花が満開であることがわかった。
道の端に真っ赤な絵の具を流し込んだかのように、遠目から見てもわかるくらいの赤が並んでいたのだ。本来は緑であるはずの道が驚くほど赤く染まり、晴天の下で波打っている。
それだけでも見応えのある光景だった。
車から降りて近づいてみると、パチパチと火花を散らす線香花火のような特徴的な花の形が見えてくる。
遠くから見れば長いリボンのようにも見えた彼岸花だったが、その一本一本は空に向かって迷いなくまっすぐに伸びていて、何者とも群れない高潔さすら感じさせる。
デジタルカメラとは別にフィルムカメラも持ってきていたので、フィルムでも何枚か撮影してみた。デジタルカメラで撮るのも難しいというのに、フィルムカメラで撮るとなると余計に難しい。
大胆さにも繊細にも見える姿はどう写せばいいのか、そう考えているうちにも目の奥に満開の赤が染み付いてしまいそうだった。
そういえば、彼岸花の球根には毒があるらしい。
誤って食べれば死に至るような強い毒性があり、この毒がモグラやネズミなどを田畑に寄せ付けない効果を持つことから、昔の人はよくあぜ道に彼岸花を植えたそうだ。
見た目もさることながら、毒まで持っているなんて、人々が彼岸花に対してどこか不吉なイメージを持つのも頷ける。
写真を撮り続けてきて最近になって気がついたのは、自分は人工的な町中より自然の多い場所を撮るほうが好きだということだ。
特に、木はいい。それも大きな木だ。美しく咲く花もいいが、大木を撮るときは心が洗われるようなさっぱりとした気持ちになる。
そうやって気持ちよく撮影できるお気に入りの被写体をあといくつ見つけられるか、楽しみだ。
処分するのが面倒でほったらかしにしていたダンボールを、猫が気に入って寝床にしている。
非常に可愛いからいいのだが、そんな気に入られたダンボールたちが日に日に増えてきた。このままでは家をダンボールに占領されかねないが、勝手に捨てることはもちろんできない。なぜなら、猫と暮らし始めたその日から、この家は私のものではなく、猫のものなのだから。
しかし、これ以上増えても困るので、どのダンボールを処分して良いか、猫様にお伺いを立てるしかないのである。
ハイクオリティ、ロープライス。
撮影・文 目次ほたる