目次ほたる 「記憶のはしっこ」#50
17 Photosモデル・ライターとして活動する21歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」の50回目、1年半続いたこちらの連載もいよいよ最終回です。
目次ほたる 「記憶のはしっこ」#50
17 Photosモデル・ライターとして活動する21歳、目次ほたるが写真を通して、忘れたくない日々の小さな記憶をつなぐ連載「記憶のはしっこ」の50回目、1年半続いたこちらの連載もいよいよ最終回です。
2020年7月に始まった当連載「記憶のはしっこ」は、ついに50回目を迎えた。
「カメラ初心者が毎週写真を撮り続けたらどんな変化が起こるだろうか」
そんな実験的に始まったこの連載は今回をもって最終回となる。
丸々1年と半年弱をかけて山ほど撮った写真を眺めながら、最終回はどんな連載にしようかと悩んだ結果、最後らしく今まで撮った写真を振り返ることにした。
記憶のはしっこ50回分の軌跡を読者のみなさんもぜひ一緒にたどってほしい。
この連載が始まったのは、ちょうど新型コロナウイルスが日本に到来し、まだなんとなく対岸の火事だったコロナ禍の驚異が徐々に現実味を帯びてきたころだった。
7月のうだるような日差しが降り注ぐなか、熱気のこもるマスクに鬱陶しさを感じながら慣れない手付きでシャッターを切っていたのをよく覚えている。
それが今になってみれば、マスクをしてソーシャルディスタンスをとるのが当たり前の世界が訪れているのだから、1年もあれば世界はがらりと変わってしまうのだと知った。
最終回の原稿を作るにあたって、まだなにをどう撮っていいかもわからなかった初期のころの写真を見ていると、我ながらあまりの下手さに卒倒しそうになった。
当時は下手どころか、「初心者にしては上手じゃない?」と得意げにすらなっていたので、現実を知らないとは本当に幸せなことである。今はもう少しマシになっていることを願うばかりだ。
けれど、下手は下手なりに目の前の光景を必死になって捉えようとしていた懸命さが写真からなんとなく伝わってくるのは、発見の1つだった。
カメラを持ち始めたころはとにかく写真を撮るのが楽しくて、深いことは考えずにバシバシと撮っていたように思える。
きっと今の私には見えなくなってしまったような些細な日常のきらめきが目に映っていたんじゃないかと思うのだ。
写真は自分が対峙した光景を、その記憶や解釈を織り交ぜて未来に残せる媒体だ。
だからこそ他者から見て上等な写真には見えなかったとしても、写真に自分の伝えたかったメッセージが残っていて、後で見返したときに記憶がよみがえってくるのなら、それで充分なのではないかと思った。
この連載を始めたばかりの頃は、極端に言うと「写真は誰かに見せるためのものなのだから、上手さがすべてだ」と考えている節があった。
しかし、刹那を一生残せる写真の価値は、そんなことでは決まらないと今だから思える。
拙いながらも、カメラを通して必死に世界と向き合おうとしていた過去の自分がそう教えてくれた気がするのだ。
「いい写真とはどんな写真だろうか」
今の自分にそう問うとするのならば、きっと「見たときに記憶が鮮明によみがえり、またその記憶や感覚の一端が観賞者に伝わる写真」だと答えると思う。
私がこの連載を通してやりたかったことは、読者のみなさんと一緒に写真を通して記憶のはしっことはしっこを繋ぎ合わせることだった。
こうして写真を並べてみると、自分のやりたかったことがほんの少しでも実現できたのではないだろうかと思う。
ここからはそれぞれの写真について紹介したい。
題名「星色の木陰」
写真に題名をつける習慣はないので、名前のある写真は少ないのだが、この写真は題名も含めて1年半のうちに撮れたもののなかでも特に気に入っている。
この写真を見てくれた知人に「今まで見た金木犀の写真のなかで1番好きだ」と言ってもらえて、嬉しかった。
誰かの1番になれることなんて滅多にないのだ。
題名「青いドレス」
なんてことのない風景にも、発想を加えれば物語が生まれるのだと学んだ1枚だった。
カーブミラーが嬉しそうに見えるだなんて、写真をやっていなかったら得られなかった体験だろう。
そういえば、1年半のうちに家族が3匹も増えた。
昔から保護猫と縁があるのか実家にも元捨て猫が2匹いて、うちに住む猫たちもみんな保護猫だ。
写真に写っているのは、最初に迎えた長女猫である。
知人が住んでいるマンションの駐車場に捨てられて、ガリガリにやせ細っていたところを引き取った。交通事故にでも遭ったのかしっぽの骨が折れていて、今でも排泄障害を抱えている。
この写真はまだうちに来たばかりでこちらを警戒しているころだが、今ではキャットフードをもりもりと食べて育った立派なお腹をたずさえて、寒いときだけ膝に乗ってくるふてぶてしい猫に成長した。
他の2匹の写真も連載内にのせているので、猫好きの方はぜひさかのぼって見てみてほしい。
連載中にポートレート撮影にも挑戦したくて、SNSを通じて被写体になってくれる人を募ったところ、なんと赤ちゃんのお父さんから「息子を撮ってほしい」と連絡をいただいた。
ただでさえ人を撮った経験が少ないのに、赤ちゃんを撮るなんて大丈夫だろうかと心配になったが、ご両親の協力の元なんとか撮影できた。しかし、思ったよりも上手くは撮れなくて、人を撮る難しさを改めて感じた回となった。
ご両親に抱きかかえられて嬉しそうにしている彼の姿を見て、自分もこんなふうに愛されて育ってきたのかと、感慨深くなったのをよく覚えている。
写真を撮っているうちに季節の変化をよりはっきりと感じられるようになった。
というのも、できるだけ季節を感じられるような写真を撮るために身の回りで変化を探す習慣が付いたのだ。
春になると近所の空き地に咲いている雑草のなかからタンポポの花が顔をのぞかせたり、夏になると野山に鮮やかな新緑が芽吹きだしたり、秋になると公園のイチョウ並木が美しい黄色に包まれたり。
それまでは何も考えずに見ていた光景が、急に意味を持って視界に映るようになった。
「撮りたい」と思う気持ちは、きっと世界を広げてくれるのだ。
こちらは私のぎこちない撮影に付き合ってくださった、かのうさん。
連載の中でも数少ないポートレートを撮らせていただいた方の一人だ。
かのうさんはモノクロフィルムで写真を撮る方で、私も被写体として何度か撮ってもらったことがある。
今までは映る側ばかりだったから、自分が撮る側にまわるのはなんだか不思議な感覚だった。
今は誰もがスマホを持ち、簡単に写真を撮れる時代となっている。
SNSでいいねが付くインスタ映えな写真も、アプリを使った自撮りも、友達や家族と撮る集合写真も、自分だけで楽しむための思い出写真も、誰しも写真フォルダを開けば色とりどりの写真が並んでいるだろう。
そんな時代だからこそ、ちょっと意識的に「自分の撮りたい写真」を見つけようと周囲を見回す時間は、きっと人生に新しい発見をもたらしてくれるはずだ。
私はこの連載がなければ、写真にこんなに夢中になることはなかった。
写真に出会うきっかけはそれぞれだけれど、一度写真へ歩み寄れば、
次は写真のほうから新しい場所、新しい人、新しい気持ちに出会わせてくれる。
願わくば、私が撮り続けてきた50回分の記憶のはしっこが、そんな誰かの出会いのきっかけになれば嬉しいと思うばかりだ。
最後になりますが、連載にあたってたくさんのお力添えをいただいた皆さまにお礼を言わせてください。
毎週原稿を編集・入稿してくださった日刊ゲンダイの担当さま、撮影に付き合ってくださった皆さま、プロフィール写真を撮影してくださったカメラマンの皆さま、特別企画にご協力いただいた皆さま、そして最後まで連載にお付き合いいただいた読者の皆さま。
心より感謝申し上げます。
これからもその魅力に心を揺さぶられながら、写真に向き合って参りますので、どうぞよろしくお願いします。
目次ほたる
撮影・文 目次ほたる